され竜18巻の感想とアニメ化について

され竜18 小説

2か月連続刊行となったされ竜の帯にアニメ化の文字が!本編と合わせて色々思った事をダラダラ書きます。

取りあえずはオメデトって感じです。

スニーカーで1巻が出たのが2003年って事を考えれば、もう13年か!

ガガガ文庫に移ってから世界リセットしたけど、物語としてはアナピヤ編から全然進んでいないのに驚愕。

ただ、以前から漫画化されたりドラマCDになっていたりと、メディアミックスはされていました。

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漫画の方は女性読者向けのホモっぽい感じの売り方だったので、微妙でしたけど、闇を抱えてるっぽいヘタレ眼鏡と超然としている感じの美獣のコンビというだけで一定の需要はあるのでしょう。

18巻の感想

取りあえず17巻よりは面白かったです。

ただ、ラボ氏が慣れた展開をやろうとしてハッと我に変えって止めるという流れが随所にみられて物語に没入して楽しむという感じではなかったです。

例えばハイパルキュを倒したけど、実は本体は別にいたって展開を天丼的に繰り返して書きながら潰したのは意識したギャグなのかって思うくらい。

それにルルが最高の歌姫として呪力で作られた合成人間である事が発覚してからのハイパルキュの「生みなおし」の流れなんかは、エルノム編の強制○娠&出産の展開を繰り返すかと。

あー、これルルが蹂躙される流れだなー、アナピヤ編みたいにアイデンティティ揺らいで発狂するな~、ハイパルキュの幼児性が断罪されるな~て思いながら読んでました。

結局そうはならなかったのですけど、あの物語の作り方はもうスタイルなのでしょうね。

ハイパルキュ打倒までは18巻の半分位で終わったので、物語が進むかな!と思っていたらこれまたダラダラと引き延ばしてようやくラストで宙界の瞳の話に戻るという・・・。

これまでガガガで書いてきた事ほとんど不要じゃないか。

世界観を膨らませる以外に役にたってる感じが無い。

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物語が進まない理由について考えてみた

そもそもどうしてされ竜は話が進まないのかというと、おそらくはアナピヤ編を書いてしまったせいでしょう。

スニーカー版でも書き直しのガガガ編でも結局は同じ結論しか出せずに詰まる。

どうして詰まるかというと、小説はフィクションだって事に自己言及するだけでなく、自己満足に過ぎないって事を書いちゃったからではないか?

例えばヒロインのアナピヤは男をひきつける存在として作られ、しかも洗脳力を持っている。

ほらほら、お前らこういう女の子好きだよね~みたいに。

書き直しをしても結局、ガユスはアナピヤを拒むわけですが、これって小説家なのに読者が物語を拒んだり、作者が物語の意図を否定するっていうメタ的な自己否定になっちゃっている。

しかもガガガの方は自己犠牲感がマシマシ。

ヨーカーンを追加してラストの展開をメタ的に眺める視点を確保していた上で同じ展開を繰り返すか?みたいに念押ししているのに自己否定を乗り越えられない。

ラボ氏は小説家って職業が卑しいとか恥ずかしいとおもっているのかな?

作品世界の登場人物が作者の一部分の表れであり、無意識が反映されているのは当たり前。

その上で物語はエンタテイメントなんだから、読者を楽しませる目的や機能をもっているわけです。商業出版された作品はすべてそうです。

そんな事を承知の上で読者は作品世界に没入しての楽しむのと同時に作者の考えを追ったり物語の意味を考えたりするわけです。

つまり、作品の受け取り方にもレイヤーがあって、単に読んで楽しむだけでなく、楽しみつつ批判的に捉えたり、10年以上同じ作者を追ってきては新作が出るたびにつべこべ言う楽しみ方をする奴もいるわけです。

作者が物語込めた意味やそのメッセージを読み取れる事は当然ですが、そのうえで脱構築的に読者が作品にみているものがある。

ある種の女性読者にとってみれば「されど罪人は竜と踊る」の本質はガユスとギギナのホモっぽい関係性にある事だし、モダンにしてみれば一人の作者の悩みとか広げた風呂敷をたたむ手腕とか。

つまり、物語に意味を付けるのは読者ってことです。

戯作者がフィクションはダメだ、と言う物語を作っても、それは物語として語られてしかも商業出版している訳ですから、自己否定になる。

テーマが文学の範疇なのにエンタメ小説で語るから苦しくなるのです。

そもそも文学の分野でコレをやったら、後は筆を折って「作りごとと自己満足」の世界から距離を置くか、その矛盾を乗り越える主張を込めた作品を書くかしかない。

で、どちらも出来ないラボ氏は結局のところ続編では手癖でお茶を濁すような事ばかりを書き連ね、モラトリアムをずーっと続けてきた。

アニメ化っていう大きなお金やたくさんの人が関わるプロジェクトが始まって、ようやく物語本筋が動きそうだけど、どうなることか。

あとがきを読んで初めて知りましたけど、ラボ氏は結婚しているみたいですね。

そのせいでやたらジヴが出てきたり、くどい女性描写が増えていたり、フィクションで都合のいいヒロインを書く事が恥ずかしくて否定的になっちゃったのかな?

もしそうだった場合、自意識を隠した気になっているだけで、意味は無いとおもうけど。

モダンとしては「浅井ラボ」は物語のギミックに凝らず、もっと自意識を出してほしいですね。

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